2018年9月19日水曜日

大河ドラマについて~坂本龍一さん13

坂田さんの大河で一番好きなのは「おんな太閤記」と「いのち」です。どちらも直ぐに3度転調しますね。
坂田さんのそういう音楽はモーリス・ジャールに似た部分がありますね。恐らく好きだったのではないかな。勿論、ラヴェル的な部分は大きいですが。

※3度転調に関しては、今のポップス(歌モノ)でもまだ使われている。
同じフレーズを高さを移して再度提示することにより、まるで同じ景色が異なって見える様である。
歌モノの場合は単に音域の制限が大きい為に転調や転旋により、楽曲に動きを付ける目的もあるだろう。

※私は実際、坂田晃一先生に過去の音楽や影響について質問をしたことがあるが、彼の答えは意外にも「あまり聴いていない、影響されるからね」というものであった。
本当かどうかはご本人のみぞ知るものだが、彼の楽曲を聴いているとやはり世間の流行りに流されては居ないと感じる。
レッスンでも寧ろドボルザークやラヴェルのオーケストレーションなどクラシックの話の方が多かった。
ちなみに私は圧倒的に「春日局」の音楽性の深さが好きである。
賛同者は少ないが。

・・・
(続き)
大河ドラマ全体で言えば湯浅さんの「徳川家康」も好きですし、三善さんの「春の坂道」は流石です。
林光さんの「国盗り物語」「花神」「山河燃ゆ」もいいですね。
僕は割りと林光が好きです。
あの方もインヴェンションに満ちています。ちょっとプロコフィエフやショスタコーヴィチを彷彿とさせるところもあります。

※この辺りの坂本さんの好みは、彼が「ポピュラー」への適性が強いことを示している様に思える。
私も坂田晃一以外で好きな曲は林光、三枝成彰などである。
勿論、湯浅譲二や三善晃の商業音楽とは思えぬとても深い芸術性にも圧倒されるが。
そして、武満徹も一作書いている。
この当時、坂本さんも「八重の桜」のテーマを書いた後であり感慨深いものがあったであろう。
彼が書いた曲はフーガの様にテーマが五度(四度)移行する出だしであったところがまた面白い。

2018年9月15日土曜日

彼の音楽を超える為に彼を知れ/Sakamoto12

プロコフィエフはバルトークとは随分違うと思いますよ。

バルトークは実はとても論理的なのです。真面目すぎて少しはプロコフィエフのようなユーモアがあってもいいとさえ思うぐらいです。
ベートーベンの後期の晦渋な作風を、時を超えて受け継いでいるかのようです。
調性が感じられる作風がお好きのようですので、だったら是非ベルクをよく聴いて頂きたいなぁ。
三人の中では(夭折ですが)最後まで調性が感じられる、その意味で最もマーラーの後継者と言っていい作曲家なのではないかと思います。

※私は当時プロコフィエフとバルトークに近親性を感じていた。調性が有りながらも現代的という部分に。この坂本さんの一言で、もう一度バルトークをしっかり聴こうと思い直したのである。
但し、ベルクは調性があるから親しみやすいかというと、寧ろ無調の方が親しみやすかったりするのが不思議である。

ま、ラヴェルの書法は理解しやすいですからね。応用性もありますし。
ドビュッシーやサティは「Invention」だから応用がききません。
ドビュッシーの天才はぼくにとっても未だに分かりにくいです。
ちなみに、ドビュッシーは至宝である最後の3つのソナタを聴かなくてはいけません。
ベルクの一番真髄が表れているのはオペラだと言われますが、ぼくはオペラは苦手で元来、室内楽が好きなので、やはり「抒情組曲」、そしてやはり遺作の至宝、ヴァイオリンコンチェルトです。

※ドビュッシーの最後の3つのソナタとは
「フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ (Sonate pour flûte, alto et harpe)」
「 チェロ・ソナタ (Sonate pour violoncelle et piano) 」
「ヴァイオリン・ソナタ (Sonate pour violon et piano) 」を指している。彼は本当はもう3作程予定していたが志半ばで亡くなった。

【拙作へのアドバイス】
The Painless War 彦坂恭人:作曲

ありがとう、聴きました。
拍節の頭にメロディがきちんと解決してしまうところが多過ぎるように感じました。これは100%、ぼくの好みの問題ですが、ぼくは解決しない方が好きなのです。割り切れなさが好きなのです。

※旋律を和声から際立たせる要因には旋法性が挙げられるが、実は機能和声的な音楽であっても倚音や繋留音を使うことにより「ズレ」を生むことができる。
現代のDAW全盛の時代ではともすると忘れがちなのが、グリッド、小節の存在がある種の「縛り」になっていることである。コピペなどの貼り付け音楽では特に顕著であろう。

2018年9月14日金曜日

Episode11 Ryuuichi Sakamoto

バルトークは僕には全然つまらなくありませんよ。とても影響を受けました。
ストラヴィンスキーより強く影響を受けたぐらいです。僕のルーツの一つ、ベートーベンに思考が近いからです。
クセナキスは数学的に作りましたが、その基には強い思想、感情的な動機があります。
彼はギリシアの軍隊に抵抗して拷問を受け、顔面の半分を失いました。
あの音群は、人々の足音であり、軍の銃弾の記憶が強く反映しています。

ストックハウゼン、ブーレーズも完璧に数学的な方法だけで作った訳ではありません。
あのような音響を求める強い動機がありました。それを自分たちなりに方法化しただけです。
特に二人には、強い制約がより高度な自由を得ることを知っていました。

しかし、僕の耳には「コンセルヴァトワール」のソノリティが強く、ブーレーズの音楽の中に聴こえます。

女性建築家、作曲家、シェフ、パイロットは歴史上に限らず今も虐げられています。

※当時、私の耳にバルトークは無機質に聴こえた為、その話をした際の回答。
※クセナキスの一番の高弟は高橋悠治である。彼は直感派の様に見えるが数学に強いし、強度の高い作品を残している。

※ブーレーズの音楽はやはりフランス人が書いたものだと言うのが響きにも現れている。
当然、ドイツやオーストリアの現代音楽の影響も受けているが、やはり書法の洗練、印象の作用が強く出ているのはドビュッシー、ラヴェル、メシアンの系譜に連なるものであろう。
ソノリティというのは「音」そのものを指しているが、非常に抽象的でもある。
※女性作曲家というのは当時だとタイユフェールやリリ・ブーランジェなどが居たが、それ以前にもファニー・メンデルスゾーン、クララ・ヴィーク(シューマン)等も作品がしっかりと見直され始めたのは最近であろう。
商業音楽やポップスの世界では寧ろ、女性の活躍は目覚しい。

2018年9月13日木曜日

R.Sakamoto 10

【好きな映画、映画音楽】
「Citizen Kane」は大事ですが、何と言っても、Hermannが素晴らしいのは「Psyco」、「Vertigo」だと思います。

※それぞれ「市民ケーン」、「サイコ」、「めまい」。
坂本さんが最初に映画音楽を担当した際に見るべきとアドバイスをされた映画は「市民ケーン」だったという。

晩年はヒッチコックと仲違いしてしまいましたが。モリコーネは是非「1900年」を見て下さい。
とても長いですが。New Cinema Paradisoは少し甘すぎてぼくは好きではありませんが、それは個人の好みですから。

※「1900年」は本当に長いが、傑作である。
また、ニュー・シネマパラダイスは一般的に人気が高いがモリコーネの息子アンドレアが書いている部分も結構あると感じる。
坂本さんも音楽がエンニオとは少し違うところがあると指摘していた。(傑作には違いないが)

【映画音楽語法について】
映画音楽では、音楽の文法(拍、和声の流れ、旋律線の音楽上で必然的な上がり下がり等)が邪魔になることが多々あります。
映像のテンポや意味とずれてしまって、勝手に音楽の時間の中で走っていってしまうのです。それではいけません。

ジョルジュ・ドルリューは大好きです。
※フランス映画音楽の巨匠の一人

シェルタリング・スカイの音楽はジョン・バリーの家で作曲しました。
タルコフスキーは全て傑作です。特に何度も見ていると深く感じられるのが「鏡」です。
それ以前はやはり遺作の「サクリファイス」が一番好きでしたが。バッハと尺八が共存しているのが凄いですね。
武満さんもタルコフスキーの大ファンでした。ルイージ・ノーノも。
彼らにはタルコフスキーを偲ぶ曲がそれぞれあって、素晴らしいものです。

昔、フランスではドルリューの音楽を聴くために映画館に行くと言われたほど、ファンが居たそうです。「軽蔑」の音楽は、もう本当にたまりません!

2016.6

※坂本さんが如何に映画がお好きか、そして、映画音楽に対して鋭敏な感性を持っているかが伝わってくる。
彼が関わった映画監督はそれぞれが相当なくせ者揃いであり、音楽にも拘りが強い人が多かった。

優れた映画監督というのは、音楽家でも思い付かないような音楽的発想を時に発動するのだろうか。

2018年9月10日月曜日

坂本龍一の託宣(9)

お前いい加減にしろよ。
と言われそうだが、私は気にしない。そもそも、ここまで書き続けるつもりもなかった。
ただ、今読み返してもあまりにも面白いので皆さんに共有せねばという一心だけである。
ご本人には恨まれるかもしれないが、それは私が背負えば良いだけである。

・・・・
ジェリー・ゴールドスミスの譜面も見たことがありますが、とても緻密に書いてます。
みんな真面目ですね~!ぼくは書くのが嫌だから、こっちのPopの世界にきたようなものです。

パクリと影響とどれだけ差があるか、難しいところです。
聞いた話ではジョン・ウィリアムスは、スピルバーグの前でピアノを弾きながら進めてたそうです。
ですから、ピアノのスケッチ程度のものをオーケストレーターに渡して、ここはプロコフィエフのこの部分、ここはコーンゴルト、などと指示しているのかもしれませんね。
コーンゴルトは映像を見ないで脚本だけで音楽を書いたそうです。オペラと同じ発想ですね。
モリコーネは偉大ですよ。
ぼくはハーマン、モリコーネの二人は歴史に残ると思ってます。

※幸運なことにたまたま、私もこのお話を伺う前に、大学時代の師匠(坂田さんではないが)のお陰で、ゴールドスミスの譜面を見ていた。
リダクションとはいえ、しっかりと木管、金管、弦、打楽器やシンセまでも書き込んである、隙間のないスコアであった。

反対にジョン・ウィリアムスの場合はハリウッド音楽で活躍されている日本の作曲家のお話では連弾譜程度の簡易なものらしい。
ただ、彼も元々はオーケストレーターをしていたので、勿論、昔は自分で全て書いていたのである。
キャリアにおいて比較的早めにハーバート・スペンサーという優れた先輩と出会った為に、自分でやるよりも上手くいくならばということで、初期の頃からスケッチだけを書くようになったと思われる。

旧式でやっていた、バーナード・ハーマンなどからは「自分で書かないとは何事だ!」とお叱りを受けたこともあったらしいが、実際に出来上がってきた作品の質の高さに、恐らく重鎮たちも納得せざるを得なかったであろう。
ゴールドスミスにも専属オーケストレーターは居るが、比較的自由度が低い。なぜなら、ほぼ全ての音がコンデンススコアに書いてあるのだから。

この辺りは日本でも問題になっているが、私は今の時代、分業することに何の問題もないと思っている。
あとはどこまで任せるかは作曲家自身のプライドや価値観の問題であろう。
私もオーケストレーションや打ち込みは面倒臭いので、コーラの「原液」を作る方が好きだが、あまりにも性格が捻くれているのでパートナーはなかなか見付からず、必然的に全て自分でやっている。

まぁ、そのお陰で上達するから良いとも言えるけれども。

つづく。(保証はしない)

【ミュージカル的な歌謡曲】

都倉俊一さんの曲というのは実はミュージカル的なのです。
彼は歌謡形式のヒットソングはあまり出していません。(異論はあるでしょうけれども事実です)
ピンク・レディーが多忙な中のやっつけ編曲になってきたことに気付いたのか、後年は萩田さんや井上さ等のアレンジャーがついてからは曲がドッシリとしています。
あくまでも「しっちゃかめっちゃか」はピンク・レディーと阿久悠という演者と劇作家が居て初めて成り立ったのです。
現代で都倉俊一の後継者はヒャダイン(前山田さん)でしょう。「しっちゃかめっちゃか」はプログレッシブで展開が多様とも言えるのです。
彼の場合は作詞も仮歌まで歌っているので良くやるなあと思います。

2018年9月8日土曜日

Conversation with SAKAMOTO vor.8

林光や間宮芳生なんかにもいいものがありますね。あとは松平頼暁もいるし、ああ湯浅さんを忘れちゃいけませんよね。
近藤譲にもいいものがあるし。一柳さんはつまらないけど。
佐藤聰明、廣瀬量平なんかも結構聴いたし、変わったところでは小杉武久にも影響されたなぁ。
あ、上記のドイツ系、フランス系以外にもアメリカというのがありますからね。
もちろんケージ、ライヒ、グラス、ラモンテヤングなど。そのつながりでフルクサスのアーティスト達にも影響受けたし。

※坂本さんが海外のみならず、日本の作曲家達にも影響を受けていたことは私には驚きであった。
どこか彼を神格化していて、日本の作曲家など眼中にないのではないかと思っているような所があったから。
また、面白いことにつまらないと言われている一柳さんは日本の作曲家では重鎮の扱いである。本当に尊敬されているかどうかは知らないが...平山郁夫の様な存在であろうか。

ちなみに、私は今の日本のアカデミズムには全く興味も魅力も感じない。
あまりにも閉鎖的であり、自分の城でしか闘わない人達と思っている。
生活を、自己のアイデンティティを守るためにそれは致し方のないことなのであろうけれども。

優れた音楽家ほど他者への批評も厳しいものである。それは過去のシューマンやドビュッシーの例を見ても明らか。
日本は波風を立てないことが大人であり、美徳であるように考えている人間が大半であるが、芸術というのはぶつかりの火花の中から生まれるものである。
仲良し倶楽部からは何も生まれない。商業音楽界も全く同じ状況である。

人を批評、批判することをディスる(私の感覚としては、ゲットしたと同じくらいに古い)という言葉でまとめてしまうのは勿体ないのではなかろうか。

2016.6

坂田さんのクラシカルな曲を集めたCDはないのかと思いまして。

※坂田晃一というのは不思議な音楽家で、あれだけ抜きん出た芸術性と大衆性を兼ね備えながら、クラシカルな分野への作品というのは異常に少ない。
基本的には「頼まれないと書かない」と話していた。
そういう意味で私は芸術家ではないね、と。

ジョン・ウィイリアムスはすごいパクリ屋ですが、もし本人が書いているとすると、やはり書く力はとてもありますね。昔のハリウッドの作曲家はみんな書いていましたが、その最後のような人だと思います。

※アメリカは基本的に分業である。下手したらメロディとコードしか書いていない可能性も否定出来ない。しかし、高齢になる前は彼も4段のリダクション譜を書いていたそうであるし、そこからオーケストレーションをするのはオーケストレーターの仕事である。
日本は三枝さんなどを除き基本的には自分で全て書かないと、軽蔑の対象となるようなところがあるが、要はコーラの原液を作ったものが勝ちなのである。技術に焦点が当たることが少ないのは、それは努力や経験で効率的に出来てしまうところがあるから。
音楽的な才能というものを「作曲」だけに求めるのは少し酷であるし、テクノロジーが優先の現代ではアレンジャーに日が当たることがあっても良いのでは?と思わされることも度々である。

2018年9月7日金曜日

坂本龍一Episode7

リヒャルト・シュトラウス、つまりませんねぇ。彼は「店のメニューでも音で書ける」と自慢していたそうですが。
ヒンデミットもつまりません。ピアノとホルンとか、楽器の組み合わせはいいと思うものもあるんですが、本当に音楽がつまらない。
ぼくは、どうしても、ドイツ系からウィーン楽派、そしてドビュッシー、ラベル、メシアンのフランス系、双方からの合流点としてのブーレーズから10代、20代のはじめで始まりましたから、どうしてもそれ以外は未だになじめないところはあります。
傍系としてもちろんバルトーク、ストラヴィンスキー、クセナキス、リゲティ、それにシェーンベルクやクルタークなんかも大好きですが。

ああ、それに加えて日本人作曲家がいましたね。忘れちゃいけない。
三善晃、矢代秋雄に武満徹。
もちろん高橋悠治!

2016.6

※ここでは作曲家らしく辛辣な批評が続いているが、作曲家というのは基本的に同業者は誉めない人種だということを覚えておいて頂きたい。
これは坂本龍一に限ったことではないのである。
自己を確立するために取捨選択は必須であり、また好き嫌いなどというものは時により変化するものなのである。
寧ろ、彼がどんな作曲家を聴いてきたのかを知る貴重な資料と言える。

彼は意外に日本人の作曲家を聴いていることに驚いた。

2018年9月5日水曜日

【 ハイヒール】ペドロ・アルモドバル監督

(1991)

監督・脚本:ペドロ・アルモドバル
製作総指揮アグスティン・アルモドバル
出演:ビクトリア・アブリル、マリサ・パレデス
音楽:坂本龍一
撮影:アルフレッド・メイヨ

人気歌手の母は自由人。
一人娘は実父と継父の間に挟まり、母への愛情を抑えながら生きる少女時代を過ごす。
家を出たっきり帰らなかった母が十数年ぶりにスペインに戻った時、彼女は27歳になっており、何と母の愛人であり、上司でもあるテレビ局社長の継父と結婚していた。

そこから、おこる惨劇も彼女の繊細な気質の故か。勿論、社会的に許されることではないが。

坂本龍一の隠れた名作でもある。

Ryuuichi Sakamoto/Episode6

ぼくはシェーンベルクの調性が残っている時代のものは、後期ロマン派、マーラーを受け継ぐ者としてのものが感じられて好きなんですが、ウェーベルンはやはり完全に調性を放棄した後の、純粋で切り詰めた抽象性が好きですねぇ。
ベルクはずっと調性的なものがあるので、全て素晴らしいですねぇ。
ベルクこそ実はマーラーを一番発展させた者と言えるとぼくは思います。
ぼくもマーラーを聴き出したのは50歳を過ぎてからですよ。
※新ウィーン楽派と呼ばれる、シェーンベルク、ベルク、ウェーヴェルンの精神的支柱は実はマーラーである。
最初は音楽的に何処が似ているのかと思ったが、よくよく考えればマーラーほど自由に書いている人は少ないし、それに長くて取っ付きづらい。
武満は坂本以上に後期ロマン派に興味を示していないが、その後のシェーンベルク、ベルク、ウェーヴェルンに関してはとても影響を受けていた。その時々でウェーヴェルンが一番好きと言ったり、ベルクが一番と言ったりしていたが、彼も調性と無調のバランス感覚が極めて高かった人なので実際に甲乙付け難かったのであろう。
ベルク、暖かいですか?
ウェーヴェルン、調性を感じますか?
※私はこの時、安易に調性のあるベルクは暖かみを感じるし、ウェーベルンにも調性があると言うようなことを言った時の返信。
ちゃんと聴いていますか?ということを言っている。
ただ、私は元々そこまで良い耳を持っていないのと、調性というのは揺るぎないシステムであると思っているので大して意見は変わっていない。
ひとつ言えるのは調性システムに基づいて音を並べ立てるだけでは「調性」は作れないということ。
ベルクは調性に含まれる音を使っているが、並べ方がおかしいので音響的に無調に聴こえる。調的な無調とでも言おうか。
反対にウェーヴェルンは調性は微塵も無いが、システムとしての純度が高いので「まとまり」を感じ、古典的な意味合いとは異なるが「無調(Chromatic)」という調性を感じるのである。
例えば、リゲティなどは音程的である。彼は新ウィーン楽派の感覚とは距離を置いていて、と言うよりも異なった感覚を持っていたのであろう。
インターバルという調性(まとまり)で音楽を書いたのである。

2018年9月4日火曜日

Ryuuichi Sakamoto(Episode5)

※タイトルはただ「五」と引っ掛けただけ。
【映画論2】
黒澤は基本的にエンターテイメントの人ですね。素晴らしいとは思うけど。
特に白黒時代。
カラーになってからはあまり好きではありません。
ぼくが好きでたまらないのは小津です。成瀬も好きです。
※小津安二郎、成瀬巳喜男のこと。
ベルトルッチは溝口に強く影響されたと言っていました。ベルトルッチの師匠のパゾリーニも大好きで、フェリーニより体質的には合います。映画監督一人あげよ。と言われれば圧倒的にゴダールです。
※ここで私はマーティン・スコセッシのインタビューにあった「人生で見ておくべき30の映画」というタイトルを坂本さんに送った。
あっ、よかった、ほとんど見てる!ま、年の功かな。
ぼくは北野さんの映画は苦手です。なぜあそこまでヨーロッパで受けてるのか(村上春樹がなぜ世界で受けるのかも)分かりません。春樹さんは、ぼくが苦手なのは理由がはっきりしていて「パクリ」だからですが、北野さんは別にパクリなわけじゃないけど、そこまで評価できる映画とは全く思えません。悪くはないと思いますが、何かボクには理解できない理由があるのでしょうねー。
※この正直な感想は私にはとても興味深かった。村上春樹より村上龍と仲の良い彼。
北野武と「戦場のメリークリスマス」で共演しながらも未だにタッグを組まないのはこんなところにも原因があったのかと。
村上春樹はカート・ヴォネガットに強く影響されているが、そこから彼の独自の世界観を提示している点ではやはり素晴らしい作家だが、大江健三郎や小島信夫、いや三島由紀夫や中上健次らと比較するとやはりインパクトが薄い。
時代が持つ軽佻浮薄は芸術にも影響を与えてしまうのであろうか。
北野武は確かに専門の映画監督ではないし、所謂、正統派で重厚な作品を撮れる人ではない。
しかし、テレビで培われた映像演出のセンスやチャップリンにも通じる「間の取り方」は秀逸であるし、何よりも希望を失った時代を若い時に経験している点で、芸大を出てから、紆余曲折は有りながらも若くして世界に名を馳せた坂本龍一とは出自が異なるのである。
マイナーな楽屋ネタを世界に通じるレベルに翻訳してしまった点ではやはり天才的であろう。
下町の感性(下世話な大衆)というのはやはり世界でも通用するものなのであろうか。
私は北野作品の大ファンだが確かに出来不出来は激しい。
「HANABI」の様に作品として美しくまとまったものもあれば、「菊次郎の夏」の様に楽屋ネタで終わってしまっているものも平気で出してしまえる図々しさが彼の面白いところなのである。
但し、彼の世界観を愛してしまうともう、作品の中身ではなく、単純に観ていたいという欲求に駆られるのである。
少なくとも学のない松本人志とは次元が全く異なる。
ジュールズ・ダッシンを彷彿とさせる「その男、凶暴につき」、「ソナチネ」や音楽を一切排除した「あの夏いちばん静かな海」、篠田正浩や勅使河原宏の系譜に通じる、近松をポップにハイファイにしてしまった「ドールズ」などは出色の出来である。
・・・
いや、完全にかいかぶりです。とてもとても僕なんか。昔はすごい人がいたんですが、、、
川端、小林秀雄、大江さん、三島、中上健次、大岡昇平さん、三善さん、武満さん、溝口、小津、成瀬、黒澤、、、みんないなくなりました。
かろうじてその頃を知っているのは、僕の身近では柄谷さんぐらいでしょうか。
※柄谷行人のこと。
劣化してますねー。それも仕方ないです。国があんな政策をしていて、自ら国力を下げているのですから。
原因と結果がはっきりしています。
※日本の政治の戦略のなさや、幼児性は現在のエンターテイメントのレベル、たとえば秋元康レベルがトップになってしまうような状況を見れば一目瞭然である。
過去の日本はまだ国を立て直そうという「覚悟」があり「PRIDE」があったのである。
今は全てがカネと一時期の名声しか求めていない。いや、生活しか見ていない。ここまで文化水準と人間が堕ちるとは20代の時の私にも想像が付かなかった。
バカが中心にいる時代は大人しくしているのが懸命であろう。
過去の文化に則って何かをやっても理解されない悲しいものである。古典を読んだり、本物の芸術に触れる人間が減った事は「時代」のせいだけにして良いものかどうか。

2018年9月3日月曜日

坂本龍一 Episode4/映画について

Hans Zimmer は「ラスト・エンペラー」の時、ぼくのアシスタントでした。ま、彼のFairlightとスタジオを使っただけなんですが。
無調をどう捉えるのか。
作曲家はみな、なんとか新しい構造やシステムを作ろうと奮闘しましたが、何世紀にも亘る調性に変わるシステムはできませんでした。
そもそもケージの登場でシステムがない音楽が出てきてしまったので。
そこからは各自バラバラで統一理論のようなものはありません。
※ハンス・ジマーの音楽キャリアはロック・バンドから始まっている。彼もYMOという売れっ子バンドが1つの分岐点になっているのは興味深い。
ぼくは戦前のフランス映画が好きです。一番好きなのはジャン・ルノワールですが、他にもたくさん。
そして本当に映画が分かるためにはサイレントを見ないと。
サイレント時代にほとんどの映画技術は完成されています。
ドビュッシー好きのぼくが言うのは悔しいけれど、ドビュッシーは19世紀と20世紀の橋渡しをしました。
真に20世紀らしい音楽を創始したのはストラヴィンスキーとウェーヴェルンだと強く思います。
大事ですね!
▶まだ死んでられるかというエネルギー。
※これは私が映画、現代音楽に話を振ったために話が行ったり来たりしている。
ぼくはドビュッシーの発明=inventionに憧れつつ、やはりラヴェルの書き方の方が親近性がありますね。ま、よりアカデミックなので誰でも書き易いということなのでしょう。
※私も同感である。
ラヴェルは何らかの形で機能和声理論に結び付けられる部分が、ドビュッシーよりも多い。メシアンも三善晃もラヴェルの分析はしているが、ドビュッシーに関しては発表していない。勿論、個人的には研究し尽くしていただろうが。
人に説明がしにくかったのであろう。