2019年9月25日水曜日

売れるということ

■売れるということ■

お笑いにしろ、バンドにしろライヴまで来る様な熱心なファンというのは、社会的に見たら「イタい」訳です。

社会に順応しづらく、一ヶ月に1回くらいは必ず、死のうと、私なんて生きていても...と考える様な人も多いのです。

しかし、
「イタい」というのは悪いこととは限らず、それは真っ当な感性を持っていることの裏返しでもあります。

何の疑問も持たず、または持っても同調圧力に抗えず、阿呆のくせに大学まで行って、就職し、結婚して家庭を作って、子育て、教育に悩み、浮気を楽しみ、病気になったり、親を介護したり、家を建てたり、ローンを組んだりしているような昭和社会順応型の人間とは違うわけです。

平成10年生まれ以降はだいぶ様相が変わってきてイタい人間の割合が増えるかもしれませんが。

でも、面白いもんで「イタくない真っ当な社会順応型人間」にも「イタさ」はあるのです。

例えば私の親父なんてのは2代続けて医師です。
典型的な昭和の程々成功者のカテゴリーに入りそうなものですが、子供はあまりにも才能があり過ぎるため、心を壊し社会的に使い物になっていないような音楽家ですし、もう1人もいわゆる王道の様な人生からは程遠い訳です。

そうするとね、親父は「イタい自分」(人間としての本音の部分)をさらけ出してくる訳ですよ。
中島みゆきが好きとかね。

つまり、イタい馬鹿そうに見えるファン、オタクの様な定額所得者の客層だけがコアなファンとは限らないし、政治家やら、経済的に成功している経営者やアーティストの中の「イタさ」を突いて行けばそれは巨万の富を得るチャンスでもあるのです。

私みたいな極限までイタい人間はそもそも金(同調圧力の化身みたいなもの)に嫌悪感があるので、結局は儲からないんですけどね。

頭がいい人はやってみて下さい。
こんな時代でもゲームに家を買えるほど課金している人も居るのですから。
私が見た中では1ヶ月で500万をなんの迷いものくしょうもないゲームにつぎ込んでる人も居ます。

2019年9月23日月曜日

価値観について


原始時代の喫茶店。

恐らく、美人は何もせんとコーヒーにケーキが付いて来た思うんです。

そこに、並の子が入って来て同じセットを望んでもウェイターのチンパンジーは何にも持って来よらへん。

人口比率としては並の子やそれ以下の子の方が多い訳ですから、「私にも食わせろや!店燃したろか!」となる訳です。

そうなってくると、オーナーチンパンも考えんとあきまへん。

石ころチケットみたいのを作りだして、美人の子は1個でいい所を、不細工な女の子は10個とかなったんでしょうね。

それでも、前まではサービスの提供自体を受けられなかった訳ですから、一段階平等になったとも言えるんです。
これが貨幣の始まりでしょう。

オーナーは本当は石ころチケットなんて概念はどーでも良かったのですが、汚いオバハン達が来て「30個あるわよ!どうしてくれる?軽い食事も付けなさいよ!」と圧力が掛かってくると無碍にもできない。

段々と本来の美の価値よりも石ころチケットの個数を優先して対応せんとやっていかれへんようになったんです。

勿論、オーナーはこっそり美人には軽食やお土産を持たせたりしてたんですけどね、「何ズルしてんのよ!」と怒られたり、下手したら暗殺されたりする危険性も出てきて、仕方なく平等に扱わなくてはならんくなったのでしょう。

そうするとね、本当の美が何か、価値が何か抽象的なものは廃れていくんですね。
実は貨幣自体も抽象だということを忘れてね。

共同幻想論じゃあらへんけどね。
そんなもんなんです世の中なんてものは。モノサシに囚われてどないすんねんという事です。
金だけ貯めて3LDKのタワマンに住んでも、発想が四畳半以下のタコ部屋みたいな人間に先は無いんです。
勿論、一銭もない私にも先はあらへんのですけどね(¯―¯٥)

世の中を教育してやりゃいいだけの話でしょ。要はいかにバレん様にやるかだけの話なんです。
それを上手くやったやつが成功してはるだけのこと。本人もそれに気付いていなかったりするのが、滑稽なんですけれどね。

芸術をやる人間は絶対的な価値観の存在を掴んでないとあきまへん。
世間がどう変わろうが美は美なんです。こっそり可愛がる対象は無くなりはしないんです。

無理に平均かして悪平等にしたり、石ころポイントを絶対的なものにしたりするのは本当に愚かなこと。
そんなもんに左右されて生きたらあきまへん。

2019年9月19日木曜日

音楽IQが低い方が売れるの?


これは言うまでもないことです。

大衆で音楽的知性、感性(IQというインパクトのある表現を使いましたが)、またはリテラシーが高い人間など数パーセントしか居ませんから。

やはり作曲家も同じ様な感性を持った人間でないといけません。

才能がある作曲家、学んでしまった作曲家はどうすれば良いのか?
到底無理な話ですが、今度は低い方のリテラシーに合わせにいくこともできるのです。

バカを学ぶという作業。
それはかなりの苦痛を伴いますが...。

視点を変えてみると、大衆を教育してやれという発想を持つ事もできます。

戦国時代のキリスト教の宣教師ルイス・フロイスやフランシスコ・ザビエルの様に物好きには、西洋音楽を教えてあげるのです。

特定のジャンル(吹奏楽やシャンソンなど)に偏向してそこを主戦場とするのも良いでしょう。

私のように全てを掌握しようとすると精神が崩壊しかかりますから、これから作曲家を目指す人には局地戦を勧めます。

製薬会社と医師、また健康食品、ダイエットなどの負の側面が最もよく出ているのは「精神」が絡む場面です。
依存させること、怖がらせること。
痩せなくては美しくないよ、顔も治せるよ、乳もアソコもデカくできるよ。
確かにそういう側面はあるのですが、限りなく追求していき、肝心の中身が疎かになっている。
音楽も全く同じでDTM幇間(たいこもち)みたいな人が居て、音楽制作というより機材や音源の宣伝だけで食ってる様な奴らが居るので反吐が出ます。
そこまで、出すほどの価値もない情報が氾濫しているので、素人や若い子達にホンモノが分かりにくくなるのです。
私は一瞬でクズは分かりますけどね。
秋元のブタとかね。目の前にいたらシバいたろかと思いますよ。
利権で動いてしまう人間の悲しさ。
それはある程度までは許容されるべきです。誰もが楽な生活をしたいですから。
しかし、どこかで気付けよ。
このまま、やっていて国力が低下することは怖ないの?
お前ら早晩くたばる年寄りはいいかもしれんけどな、その後どないすんねん!
僕は知らないとは言わせないですよ。
音大やら専門学校の教員共も勿論真っ当な先生も少数居ますけれどね、大半が腰掛けて労働しているだけ。
音楽の未来だの芸の未来を考えろや。
あっ、違う方に矛先が行ってもうた(-_-;)
まぁ、どこの業界も行き詰まってるのかね。
ZOZOのバカ社長や堀江みたいな愛も何も無い、プラスマイナスしかない脳が単純な人々に左右される様な社会じゃまずいんですよ。

2019年9月7日土曜日

類似化と差別化


⚫類似化→
その業界で行なわれている最低限のサービス、マナー等を守ること。

⚫差別化→
他の企業、ライバルにはない傑出した点を持つこと。個性と呼ばれる部分でもある。

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今までの日本の音楽業界が必死で追っていたのは実は「類似化」であり、凡庸な人々が音源なり機材なりを揃えるのもここをクリアするためなのです。
そして、それが狭義の「professional」ということです。

しかし、芸術家という人種は一味違います。
私のように「類似化」に全く、とは言わないけれども「興味が無い」人間が存在するのです。
つまり、それは世の中の大半を占める「一般的な感覚」の人間には評価をされないということを意味します。

それを自覚していればいいだけの事。
「類似化」を求めて努力をすれば世の中の基準値に合わせていけば自ずと評価は上がることでしょう。
しかし、そんなものを追うことはもうウンザリしているのです。二十代で嫌という程味わいましたから。

私は商売人には向かないのです。
四十を回るとね、勝ち負けなんてものはどうでも良くなってくるのですよ。
類似化の為の人生、皆さんお疲れ様です。と思ってしまうような天邪鬼なところがあるのです。

これは性分だから仕方がないね。

2019年9月3日火曜日

アタマではなくココロで記憶すること


自分で言うのもおこがましいですが、私がハーモニーやメロディに強いのは正に好きな音楽を時間を忘れて弾きまくっていたからです。

中学~20代の前半までそれは続きました。

服部克久先生の「音楽畑」も好きでしたし、林 知行(はやしともゆき)先生の洗練の極み、弾き易さまで考慮されたアレンジは「理論的」に面白かったからというよりは、涙が出るほど感動したから弾き続けていたのです。

様々なジャンルを分け隔てなく縦横無尽にアレンジなさる先生は今も響きを追求しておられることでしょう。

「華麗なるラウンジB.G.M.レパートリー(1) (ピアノ・ソロ) 」林 知行:編曲

2019年9月2日月曜日

馬鹿にされまくった新人時代(松本人志)

松本人志と高須光聖の話

■どこまでが応援で、どこまでが過保護か

「お笑い芸人」(特に漫才師)というのは昔は「色物(イロモン)」として、あくまでもタレント、歌手やアイドルを引き立たせる為の存在でしかなかった。

それが、やすきよ、萩本欽一、オール阪神・巨人、ドリフターズ、ビートたけし、明石家さんま、タモリ、島田紳助らによって芸能界での地位は高められ、それは同時に社会的地位の向上も意味した。

第三世代である(分け方はどうでもいいが)とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、爆笑問題、辺りになると、既にお笑い芸人というものは認められ、ある程度土壌が出来てきた上であっても、先述の巨匠達のカウンターとして闘う必要があった。

しかし、それは最初の世代の社会や業界との「闘い」とはやや様相を異にするものであり、先輩たちとの「融和や共闘」という協調性をも求められることになった。

上を叩いて伸し上がるのでは結局、自分達が年老いた時に、下に追い抜かれ寂しい思いをすることを学んでいた、たけし、さんま、タモリ、紳助達は後輩を蹴落とすのではなく寧ろ、売れてきた若手と手を組み自分達も老後に生き残れる様に保険をかけて来たとも言える。

これは芸能界に限らず、一般社会にも如実に現れている。

未だに後輩や新人を怒鳴りつけて鍛える理不尽な教師や上司は本当に数が少なくなったであろう。

それは一見、良い事にも見えるが、反面、本来は「理不尽」である世の中を教えられる人間が、それを体現する先達が不在になってしまったとも言える。

無論、理不尽な時代に戻れば良いというような単純な議論ではないし、貢献した人間に保証を与えること自体が悪いとは言えないが、様々な業界が馴れ合い、嫌われないようにする事、クローズドにすることばかりに執着をしている環境から新しいものなど生まれる訳はない。

出る杭は打たれても取り込まれても良い。
出る杭自体が減ってきてしまった人材不足、ある種の生温さの様なものをどうにかしなくてはと考える。