2019年2月17日日曜日

リディアントニック(〇7♭9th)

①バークリー・メソッド=機能和声+α

に対して、リディアン・クロマティック・コンセプトは中心音や調性に対して、ニュートラルな観点から捉えようとする姿勢が強い。


そもそも、機能和声は中世ヨーロッパ以降の「善悪」やら「三位一体」という思想から抜け出られていない。


そこに、キリスト教という紛れもない「新興宗教」が絡んでいるのを忘れてはならない。(新興だからあんだけ戦争してんだよ)

本当に中心を見ようとした場合は、正誤やら善悪という安直な判断にはならないので、それは一般の俗な人間には理解できないのであろう。(金を稼いでガキ作って生活することに何の疑問も持たないのだから)

まぁ、そんなことは人それぞれの価値観なのでどうでもいいとして、リディアン・クロマティック・コンセプトというのも、勿論、使い方を誤れば新興宗教と何ら変わりはなくなる。


もっと、頭を柔らかくしなさい。 

音は何で出来ている?


少なくとも楽音を使う限り、平均律を使っている限りは12半音の円環から産み出されるアトモスフィアを感じ取れるかどうかが大切であろう。


それを理解せずに打ち込みでドンチャカ、モァーンとやっているのは「音響系」に寄りすぎている。

音楽というのは「メロディとハーモニーとリズム」で成り立つのが基本なのである。


音色と言う要素はその次の化粧の段階。


音色があっても、音楽を分かっていない人間が使えばそこに音楽は生まれ得ないのだから。

ちなみに譜例はD.ブルーベックの「In Your Own Sweet Way」のドタマ。

機能和声でII-Ⅴ分析をすることも必要だが、それでは調性もブルーベックの意図や感性も掴むことはできない。

実はブルーベックのこの曲、機能和声で言うと、IV度-Ⅰ度とやっているのと変わらないのである。


トーナリティは大きく「E♭」▶「B♭」と変終止をしているだけ。

コードタイプに惑わされて仕舞わないのがリディアン・クロマティック・コンセプトの凄いところと言える。

「In Your Own Sweet Way」



こちらも、基本的にはトニックというものはⅠかVImに置いている点は同じ。

後はそこに、均等分割という概念を足していく(ドビュッシー、メシアン、パーカー、モンク、エヴァンス、コルトレーン皆やっていること)

7thコードという「ジャンル」(型)は通常はリディアンモードのⅡ度上に構成されるのが普通であるが♭9、♭13が入った途端に都合が悪くなる。

D7▶C modeⅡ (genre 7th)


という公式が成り立たなくなる音が入っているからである。


それは「B♭」の音。


これはホール・トーンでないと現れない。ブルースコード等は平気で使うが、原則としてはCメジャーという中心を「ボカす」音なのである(完全否定までは行かないが)

つまりここは少し捻った見方が必要だ。

そこで、簡単な考え方を教えるが、主調に対しての変化音というのは大抵それが中心になっていることが多いと言える。

この場合は、E♭かG♭がトニックに居ると考えると「ディミニッシュの範囲までで落ち着く」。


後はそれがインサイドであるか、アウトサイドであるかで序列、遠近を判断する。

それらの内演奏でどれを使うかは奏者が考えることであろう。


何よりも自分で考えて悩み抜き、感得する姿勢が大切なのである。


また、迷った時に理論書を読む前に、己で解明してみる努力を怠らないこと。

アカデミックという多数派の平均値に真の答えなどあるわけがない。それらは大抵、「落とし所」に行ってしまっていて芸の本質とは掛け離れていることがまま有るからである。


利権やら予算、期日などが絡んだものばかりやっていては、芸術の追求はできないということ。


まぁ、生きていくということは常に折り合いを付けなくてはならないという哀しさはあるのだけれどね。

興味を持った方は話を聞きにいらしてください。少なくとも印象派やらエヴァンス以降で躓く様なことは無くなる。

古典和声という体系はある時期の偏った様式美が使い回し易いが為に生き残っているだけであり、本来は旋法の様に多様であることが芸術の本懐だと思うよ。


2019年2月14日木曜日

【日替り内室】闘技と戦闘のちがい

■戦闘(物語のボス戦など)
(武力資質×門客レベル×5000)+武力ステータス

■闘技
総合資質▶攻撃力(防御力)
ステータス▶HP
スキル▶クリティカル回数、増加比率

と分かれています。

闘技の場合、資質が高ければ格上の門客に勝てる事があるのです。
目安として100前後あれば優秀、150~200に行けばそう簡単に負けなくなるでしょう。
すごい方は3000近くまで上げています。

2019年2月13日水曜日

才能が有る人が認められる世の中は正しいか?


これは、答えは簡単で「否」である。
歴史を見れば分かる通り、本当に才能のある人間は当世では認められず、後世になって評価される事の方が遥かに多い。

例えば今では世界で評価されているJ.S.バッハですら、当時はドイツというヨーロッパの片田舎にあって、更に北国の方から余り動かなかったバッハは、テレマンやヘンデルの様に興行好きな作曲家と比べれば遥かに人気は無かった。

彼の遺作「フーガの技法」の初版は印刷事情を考慮に入れたとしても少なく、何と30部程度だったのである。

賢く通俗的な息子達、J.C.バッハやC.F.E.バッハはそんな父親を見ていたので、多感様式という明解な書法とバカでも分かる簡明な音楽性の方に舵を取り大成功をしている。
後輩のモーツァルトが一番良く影響を受けたのは寧ろ、この息子達の方だったのである。書法を見れば一目瞭然だろう。

それと同様、金太郎飴のハイドンに「師事したと書きなさい」と言われたのに「貴方の助手はしたが音楽を習った覚えはない」と突っぱねたベートーヴェンも、今では世界で一二を争う音楽家であるが、当時はロッシー二の足下にも及ばない人気であった。

そもそも、世の中と言うのは大半が「才能の無い人」で構成されている。
そこに来て、才人は異分子であり、目障りなのである。
寧ろ、疎まれているくらいでないと本物の才能は無いと思った方が良い。

しかし、人間も全体で見るとバカばかりではない。
そのままでは「衆愚政治」になるだけなのを本能的に知っており、都合の良くなった頃になると認め出すのである。

現代はそれにすらも気付かない、価値基準をしっかり持たない若者が増えている。
ピンポイント検索、効率重視の弊害は溜まりに貯まると恐ろしい。

今の劇伴や業界音楽を譜面に起こしてみなさい。
とても恥ずかしくてよくこれで出版できますね。という内容のものが何の臆面もなくメジャーに流通しているし、恥ずかしいレベルをそう思わない面の皮の厚さだけは一流の人間がトップに居るように見える。
心を動かすかどうかではなく、金を動かすかどうかを重要視し過ぎた結果、衆愚という言葉すら意味は無くなったのである。

パープー・オンリー・ワンダーランドとでも言おうか。
中世ヨーロッパには豊かなカオスがあり、それは「混沌、渾沌」という風情を持ったものであったが、現代は「雑多」なだけである。
豊かさを履き違えるとこういうことになるんだよ。
気付かない方を「お目出たき人」と呼ぶのだが、そこからすると今ほどハッピーな社会は無いのではなかろうか。

ステータスというのは場合によっては一日で作れる。金をかけりゃ誰でも作れる。
必要なのは政治力、交渉力であり、本質的な芸の才と何の関わりもない。

反対に資質というものは時間が掛かるし、結果もいつ出るのかわからない。
しかし、それが固まった時は圧倒的に強いのである。

自分の判断基準を持つことだね。
法律も貨幣も皆んな方便でしかないのだから。方便が主流になってどうする。

ウソはウソということです。