2018年8月28日火曜日

坂本龍一さんとの対話(3)

※近年のオーケストラコンサートについて

ぼくは弦のオーケストレーションは好きですが、管楽器はあまり好きではありません。
というのは最近の日本のオケはかなりうまくなりましたが、昔は特に管が下手で、聴くに堪えない経験が何度もあって、すっかり嫌いになってしまったのです。しかし最近はそれではいけないと思い、なんとか使うようにはしていますが。
ぼくが音楽を考える時の基本はピアノか弦楽ですね。

【現代音楽(今ではクラシックと言えるが)大家について】
確かにストラヴィンスキーは優雅なメロディーを書くのが苦手だったかもしれません。
しかし、もし彼がメロディー書きだったら、20世紀以降の音楽の父とはなっていなかったでしょう。天は二物を与えず、でしょうか。そして彼自身そのことに充分自覚的だったと思います。彼の書いたものは、恐ろしく知的で深い教養に裏打ちされていて圧倒されます。

【国家について】
それはそうと、前にファーブルの話しをしましたが、フランス革命当時フランス語を話すフランス人は半分程度しかいなかったようです。19世紀のイタリア統一時代にイタリア語を話す人間は半分にも満たなかったそうです。中国などはそれこそ無数に地方の言語があり『山一つ越えれば別な言葉』という諺があるそうです。

※ファーブルは『昆虫記』で著名なあのファーブルのこと。

国民=Nationというのは、国家=Stateによって捏造=Manufacture(red)されるものなのです。
それはなぜか?他の国に対抗するためです。当然のことながら文学が果たす役割が大きいのです。また音楽も。
『ドイツ音楽の父、バッハ』が捏造されたのは19世紀の後半、フランスに対する対抗として『発明』されたものです。フランスはまたそれに対抗するために『フランス音楽の父』をラモー、クープランに見出だしたわけです。ラモー讃歌を書き、晩年にソナタを書いたドビュッシーも、そういうフランスの愛国主義者になったのです。

※この捏造という表現には多分に今の日本やアメリカ政治に対する疑問も含まれていると思われる。
また、同様のことを武満徹の著書でも読んだことがあり、偉大な芸術家は視点も高いところにあることが窺われる。

※日本で言えば山田耕筰や滝廉太郎であろうか。捏造とまではいかなくても音楽の教科書に掲載されている時点である種の権威を持つことは確かである。

※ドビュッシーは後期の自作のサインには必ず『フランスの作曲家ドビュッシー』と署名している。武満はショット社から自作を出版される際に『フランスの作曲家Toru Takemitsu』と書かれていたことがあり、後年、苦笑するとともに抗議をして訂正させている。

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