これは、答えは簡単で「否」である。
歴史を見れば分かる通り、本当に才能のある人間は当世では認められず、後世になって評価される事の方が遥かに多い。
例えば今では世界で評価されているJ.S.バッハですら、当時はドイツというヨーロッパの片田舎にあって、更に北国の方から余り動かなかったバッハは、テレマンやヘンデルの様に興行好きな作曲家と比べれば遥かに人気は無かった。
彼の遺作「フーガの技法」の初版は印刷事情を考慮に入れたとしても少なく、何と30部程度だったのである。
賢く通俗的な息子達、J.C.バッハやC.F.E.バッハはそんな父親を見ていたので、多感様式という明解な書法とバカでも分かる簡明な音楽性の方に舵を取り大成功をしている。
後輩のモーツァルトが一番良く影響を受けたのは寧ろ、この息子達の方だったのである。書法を見れば一目瞭然だろう。
それと同様、金太郎飴のハイドンに「師事したと書きなさい」と言われたのに「貴方の助手はしたが音楽を習った覚えはない」と突っぱねたベートーヴェンも、今では世界で一二を争う音楽家であるが、当時はロッシー二の足下にも及ばない人気であった。
そもそも、世の中と言うのは大半が「才能の無い人」で構成されている。
そこに来て、才人は異分子であり、目障りなのである。
寧ろ、疎まれているくらいでないと本物の才能は無いと思った方が良い。
しかし、人間も全体で見るとバカばかりではない。
そのままでは「衆愚政治」になるだけなのを本能的に知っており、都合の良くなった頃になると認め出すのである。
現代はそれにすらも気付かない、価値基準をしっかり持たない若者が増えている。
ピンポイント検索、効率重視の弊害は溜まりに貯まると恐ろしい。
今の劇伴や業界音楽を譜面に起こしてみなさい。
とても恥ずかしくてよくこれで出版できますね。という内容のものが何の臆面もなくメジャーに流通しているし、恥ずかしいレベルをそう思わない面の皮の厚さだけは一流の人間がトップに居るように見える。
心を動かすかどうかではなく、金を動かすかどうかを重要視し過ぎた結果、衆愚という言葉すら意味は無くなったのである。
パープー・オンリー・ワンダーランドとでも言おうか。
中世ヨーロッパには豊かなカオスがあり、それは「混沌、渾沌」という風情を持ったものであったが、現代は「雑多」なだけである。
豊かさを履き違えるとこういうことになるんだよ。
気付かない方を「お目出たき人」と呼ぶのだが、そこからすると今ほどハッピーな社会は無いのではなかろうか。
ステータスというのは場合によっては一日で作れる。金をかけりゃ誰でも作れる。
必要なのは政治力、交渉力であり、本質的な芸の才と何の関わりもない。
反対に資質というものは時間が掛かるし、結果もいつ出るのかわからない。
しかし、それが固まった時は圧倒的に強いのである。
自分の判断基準を持つことだね。
法律も貨幣も皆んな方便でしかないのだから。方便が主流になってどうする。
ウソはウソということです。
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