2018年10月6日土曜日

【公と私の境界線すら見えなくなる社会をどう捉えるか】


日本の「公」は中国(共産党)等とは異なり見えにくく設計されています。
間に仲介役(緩衝材)を挟めば挟むほど、相手にメッセージが届くことはないという状況は「言っても仕方がない」という結論に達してしまうのです。
しかし、政治による影響はもう他人事では無くなっていて、タバコも有無を言わさず値上げされ、嫌煙ムードの世の中では話題にもされません。
増税に関しても大借金国の日本というイメージがあるので、止むを得ないと皆、従順にその事後の対処しか考えていません。
本来はそうなる前にやるべき事がたくさんあるのです。
政治では話が大き過ぎるとしたら、せめて自分が属するコミュニティ、業界について本気で考えてみてください。
今、自分が安定を享受しているのなら問題はないというのでは甘いのです。
若者達をどう育てていくか、自分達の力で這い上がれよ。という短絡的な指導では指導者として余りにも虚しくはないでしょうか?
目の前の雑務が忙しいのは当然のこと。
それをしながら、全体の事を考えていくのです。
飲み会の写真をアップして喜んで居るような中年のオジサンの投稿を見ていると心から情けなくなりますよ。
そんなものは自分達のアルバムに載せておけば良いだけ。
日頃から考え発信し、意見を闘わせという小さな積み重ねが全体像を把握し、どう動かしたら良いのだろうか?
と考える糧になるのです。
もちろん、考えたって仕方がないという気持ちにもなるでしょうけれども、やはり未来への理念のようなものは必要でしょう。
ホリエモンやZOZOTOWNの社長の様な勝ちゃ良いんだよ。

未来なんて心配しても無駄だしという短絡的で、経験値のみでしか語れない人間を先生にしてはならないのです。
欠如しているのは「哲学」です。
一銭にもならないからこそ大切なのです。
日々の生活に追われているだけではいつしか知らぬ間に自分の人生も終盤を迎えていることでしょう。
その時に若い人に何かを残したいという思いを持つのがこれからの芸術家には必要なのです。
自己の世界の追求とは相矛盾する苦しい作業ですがやらなくてはなりませんよ。

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