■五代目 古今亭志ん生
おせつ徳三郎(刀屋)
立川談志は志ん生に対して複雑な気持ちがあったであろう。
どんなに才能があり、学びを極めても届かない境地があることを彼ほど体現した人はこれまでに存在しないからである。
桂文楽、三遊亭圓生、桂三木助、春風亭柳好、林家正蔵と名人は多かれど、志ん生は飛び抜けた存在なのである。
「志ん生と落語」は別ジャンルと迄、観念しているほど。
彼自身の生き方が落語を体現しており、それが芸に普遍性を与え、更にそれを俯瞰している自分。
ここ迄なら、達人は辿り着く境地。
志ん生はもう一つ別の次元に居るように感じる。
志ん生という器の中にはナレーター、登場人物の他に、批評家や客の役割までも全て一人でやってしまっている凄さがある。
これは決して有名作に挙がらないが、志ん生のエッセンスを見事に捉えた名演である。
現代の民度の低い客に、話の梗概、言葉の意味を一から説明し、声を張り上げ、動画にしてやらなくてはならない演者も可哀想なものである。
音楽業界も同じであろう。
屑屋の集まりと言って差し支えない。買う奴が居るのだから更にタチが悪い。
何をか言わんや。南無阿弥陀仏...。